スモーキーマウンテン
Smokey Mountain — 元ゴミ処分場
マニラ・トンド地区にあったゴミの山。1980年代に「都市の悲惨」の象徴として世界に報じられ、1995年に閉鎖されました。跡地には集合住宅が建ち、住民は移転しています。日本語では今も現在形で語られがちですが、ゴミ山としては30年前に終わっています。
未確認 公開情報をもとにまとめたもので、団体への確認はまだです。 最終確認 2026年9月6日
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いま、どうなっているか2026年9月時点
処分場としては1995年に閉鎖済み。跡地の大部分は整地され、元住民向けの5階建て集合住宅が建てられました。廃品回収の現場はパヤタス、さらにその先へ移りました。
何があったか
- 1950年代 トンド地区の海沿いにゴミの投棄が始まる。周囲に廃品回収で暮らす人々が住みつく。 [1]
- 1980年代 住民が約3万人に達する。煙をあげるゴミ山の映像が国際的に報じられ、「都市のスラム」の代名詞になる。 [1]
- 1990年 政府が閉鎖を決定。しかし搬入はその後も約5年間続いた。 [1]
- 1995年 処分場として閉鎖。跡地を公営住宅に転用する計画が動き出す。 [1][2]
- 2001年まで 住民を仮設住宅へ移転。約20ヘクタールのゴミ山の大部分を整地し、5階建ての集合住宅を建設。 [2]
- その後 家賃を払えず住み続けられない世帯や、廃品回収を続けるためにパヤタスの処分場へ移る人々がいた。 [1][2]
どう報じられてきたか
1980年代、煙をあげ続けるゴミの山と、その上で廃品を拾う子どもたちの映像は、世界に「マニラの貧困」を一枚の絵として焼き付けました。日本でも報道や写真集、学校教材を通じて、この名前は「途上国の貧困」そのものを指す言葉のように使われてきました。
気になるのは、その絵が30年間ほとんど更新されていないことです。処分場は1995年に閉鎖され、住民は移転し、跡地には集合住宅が建っています。それでも日本語で検索すると、今も現在形で「ゴミ山で暮らす子どもたち」と書かれた記事が出てきます。この土地は、実態より先に、象徴として固定されてしまいました。
終わっていないこと
ゴミ山がなくなったことと、貧困がなくなったことは別です。
移転した住民の中には、家賃を払えずに住み続けられなかった世帯があります。廃品回収という生計を続けるために、当時まだ稼働していたパヤタスの処分場へ移った人たちもいます。「スモーキーマウンテンの閉鎖」は、貧困を解決したというより、場所を移した面もあったのかもしれません。この構図は、2017年にパヤタスが閉鎖されたときにも繰り返されました。
トンド地区そのものは、今もマニラで最も人口密度が高く、都市貧困が面として広がる地域です。都市の貧困の記事に書いたとおり、マニラ首都圏の貧困率は統計上1.1%で全国最低ですが、率の低さと人数の多さは矛盾しません。
移転のあと、人はどこへ行ったのか
跡地に建った集合住宅に、元住民が全員そのまま住み続けたわけではありません。
家賃という、それまで存在しなかった支出が生まれました。廃品回収の収入は日によって上下します。 定額の家賃を毎月払える前提で設計された住まいは、その収入の形と噛み合いません。 払えずに住み続けられなかった世帯があります。
もう一つの理由は、仕事がそこになくなったことです。廃品回収を続けるには、 ゴミが集まる場所へ行くしかなかったため、当時まだ稼働していたパヤタスの処分場へ移った人たちがいました。
そのパヤタスも2017年に閉鎖されます。そこで同じことがもう一度起きました。 パヤタスのページに、そのとき収入がどう変わったかを書いています。
つまりこの30年、同じ人たちが2回、場所を移されている可能性があります。 「スモーキーマウンテンの閉鎖」は美談として語られがちですが、 その後を追うと、解決というより移動に見えてきます。
あわせて読む
出典
- Wikipedia「Smokey Mountain」(英語版)(取得: 2026年9月6日)
- アジア開発銀行「Turning Trash into Treasure in Manila」(取得: 2026年9月6日)